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デザイン事務所CONDENSEのブログです

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デザイナーになって今日で丸17年が経ちました

2019.02.20 / 雑記

今から17年前、2002年2月20日は僕にとって忘れられない日です。

この日、僕はデザイナーとして働き出しました。

専門学校を中退しているのにデザイナーとして就職できたのは、ほぼ奇跡だったように思います。

それから17年。色々なことがありましたが、まだこうして働けていることに感謝です。

なんとなく今日は自己満で過去を振り返っていこうと思います。

 

 

ハローワークのおばちゃんに救われる

当時はまだ19歳でした。専門学校を1年で中退してしまった僕は、中退でもなんとか雇ってくれるところは無いかとハローワークやその他求人誌の載っている募集に片っ端から応募しまくっていました。

ですが、世の中そんなに甘くありません。

90%は書類選考で落とされる。そんな状況でした。

専門学校が福岡だったので、最初半年は福岡で探し、その後にお金がないので大分の実家に戻ってバイトをしながら就職活動です。

たぶん30社は落ちたと思います。

ある日、たまたま面接までこぎつけた企業へ面接に行きました。

が、面接中に『落ちたな』と確信できるほどダメダメな面接でした。

もうダメだ、デザイナーは諦めよう、、、そう決意して、そのままの足でハローワークに行ってauショップの求人を持って窓口に出します。

その時のおばちゃんが急に『あんた今までと全く違う職種だけど、本当にいいの??』と聞いてきました。

僕は『いいんです。もうさすがに就職しないといけないし、デザイナーとしては落ちまくったし、、諦めました。』と。

するとおばちゃんが『ちょっと待っときよ。』と何かを探し出しました。

数分して眼の前に出された求人票。おばちゃんは『若年者雇用制度』という若者や未経験者向けの雇用制度があって、それ用の求人だとこの会社に応募できると。

今から電話で応募可能か聞いてみようかと。

もちろん、答えはYes!です。

この時点でおばちゃんの有り難さに半泣きです。だって諦めると決めてここに来たんですから。

それから電話で確認してくださり、後日面接に行くことになりました。

おばちゃんには精一杯感謝を伝えてハローワークをあとにします。

もう本当に最後のチャンス。これでダメだったら本当に諦めようと考えていました。

 

 

面接でありのままを話す

面接当日。ラストチャンスということで超緊張すると思いきや、開き直っていました。

自分を飾ってもどうせダメだ。もうありのままを話そうと。

実家が超貧乏で専門学校には新聞奨学生制度を使って行ったこと、でも新聞配達&集金業務と学校が両立できなくて辞めてしまったこと。

全て嘘偽り無く、飾ることも無く話しました。

すると面接官の方が『自分も家が超貧乏だったから気持ちがわかる。』と。

未経験だからすぐに採用とはいかないけど、デザインの見学だけでも来てみるか?と言われました。

はいかYesか喜んで以外に答えはないです!ぜひお願いします!!

もう奇跡だとしか思えなかったです。

いままで箸にも棒にも引っかからなかったのに、一度は諦めたのに、こんな状況になるなんて。

これが2002年1月中旬の話、2月1日から見学生という形ですが、その会社に通えることになりました。

 

 

ひたすらパチンコのPOPを切りまくる!

見学初日、朝礼で自己紹介を済ませて、ミーティングやその他仕事を見学させてもらいます。

でももうこの時点で決めていました。

ひたすら雑用をしまくる!と。

写真の切り抜き、素材探し、文字打ち、POPのカットなど、何かできることは無いか先輩たちに聞いて回ってできることを片っ端からやっていきます。

そして当時繁忙期だったらしく、パチンコの大判POP作成の手伝いに回されました。

大判印刷機から出力されたポスターや小型POPなどをラミネートしてパネルに貼ってカッターで切るのが主な仕事です。

手先が器用だったので、以外にも戦力になったらしくパチンコのPOPを切って切って切りまくります!!

職場の人にそれ専門要員としてスカウトされるほどでしたが、デザイナー志望だったので苦笑いしてお茶を濁したくらいです。

 

 

2002年2月20日

その他の少し雑用もこなしつつ、3週間ほど見学生というか雑用係として通っていました。

そして2月20日、この日は実は僕の20歳の誕生日でした。

誕生日だから定時で帰らせてもらおうと思っていると、面接官で見学生になってからは『教育係』だった方から呼び止められました。

『今日誕生日やろ?この3週間頑張ってくれたし、上に掛け合って社員になる許可もらったから。誕生日プレゼントや。』と。

嬉しすぎてこのあとの記憶が定かではありません。

とりあえず親と当時の彼女には速攻電話したのは覚えています。

多分今までで一番嬉しかった誕生日です。

 

 

感謝しかない

ハローワークのおばちゃんと面接官(後の上司)が居なければ僕は全然違う仕事をしていたと思います。

今でも2月20日になると思い出して感謝しています。

もちろん、採用してくださった当時の社長・専務にも感謝です。

その上司とは後に大喧嘩をして辞めてしまいましたが、今でも本当に感謝しています。

少しドラマチックな就職のしかたですが、脚色など一切無しでありのままです。

自己満足ですが、今日は自分語りを書いてみました。

 

 

昨日のトレーニング

ラン・・・10km(残り63km)